とりとめのない話

今日は蜂蜜のことでもブラックシードのことでもなく、私が最近よく考えている取り留めのないことについて書いてみたいと思います。

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私は今この瞬間でも、人生の色々な足かせや役割、制約から常に自由でありたいと感じています。

昔はうまく言語化することはできなかったのですが、たぶん中学生か高校生のころから何かに色々縛られる人生や、

人が安易に思いつくような先の見通せる人生はつまらないと思ってきました。

私は自分が目指したい人生が明らかにその他大勢とは違うものであるとその頃から薄々と感じていたと思います。

そのため学校生活では先生や大人が扱いやすい子供になることに徹することもできず、友人関係では距離の取り方が掴めず

力の入れ方も分からず、空気を読むこともできず、「変わった奴」だとレッテルを貼られることも多々。

なんとなく浮いた感じの学生生活でした。

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一緒に居たいと思う人は何かに向かって常に走っている人。

まだ何者にもなっていないのだけど、でもこの人生で何かを成し遂げたいと我武者羅に生きている、

そんな姿を見せてくれる人に、男女問わず強烈な魅力を感じます。

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話は戻りますが良い歳した大人が「自由」を渇望するなんて?!

仮にも世間的には結婚もして、子どもも居るのに何言ってんの?!って感じだと思います。

私は誰かの妻であり、誰かの母である以前に、私自身がいかなる状況であっても自由でありたいと感じています。

妻が、母親が自分の自由を求めることは「悪」なのか?!

ここ数年私はそんな自問をし続けてきました。

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私が思う「自由」とは

どんな状況であっても自分の人生に必要だと思うことは何を選択しても良い。

ただその選択は時には痛みを伴うけれども全ての結果にコミットして責任を持つことができる精神的、肉体的なタフさが必要。

さらには自由を獲得しようとする時、時には熾烈な戦いも必要になるかもしれません。その戦いが大なり小なり、

がむしゃらに動いていると、その自由の幅は少しずつ広くなっていきます。

そして自分が選び取ったこと、それが本当にベストな選択であったと自分自身を納得させることができた時、

全てのしがらみやあらゆる制約から解き放たれ自由を獲得することができる、そう感じています。

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Safiのきっかけは、やはり「自由」の幅を広げたくって、制約のある生き方から距離を取りたくって始めました。

今は自分が向かいたい方向にちょうど舵を取り出発の準備をしています。

でもその向かいたい方向に行き着くまでには

幾多の困難が待ち受けていることも知っています。

でも、その困難を身体中に浴びて、

お世辞にも順風満帆な人生ではないけれども、

理想からはかけ離れた人生であっても、

完璧を求めずに前に進み、いつか自分の決めた目的地に辿りつきたいと思っている今日この頃です。